
はるか青海原の彼方から
その日は呑み込まれそうなほど真っ青な空だった。夕刻が迫り、陽が傾きはじめている。村営悪石島コミューンの庭で男たちがつくる盆踊りの円が散り散りになっていた頃のことだった。

精霊を墓まで見送った15日の翌日、ボゼは盆祭りの最終日に現れる。
「ボゼが来っどーーーーー!」
突然、雄叫びが響き渡る。太鼓の音に誘われるように、間もなくボゼが駆けつける。

悲鳴が太鼓と混じり合う。ボゼはビロウの葉に身を包み、耳まで裂けた巨大な口を真っ赤に広げてやってくる。全部で3体でやってくる。血走ったような目には「羽」と呼ばれる大きな瞼とまつげをつけている。羽を揺らし、全身にまとっている赤土を塗りつけてくる。その手にはボゼマラと呼ばれる、男性器に似せた棒を握りしめている。

ボゼは声を出してはいけない。ビロウの葉が擦れる音、子供達が泣き叫ぶ声が、跳ね上がる心音のような太鼓と共に鼓膜を刺す。
長い時間をここで過ごしたかのように思えたが、実際にボゼが滞在していた時間はほんの10分程度であった。祭祀の時間は、その場に居合わせた者のみが体験する特別な感覚によって伸び縮みするものだ。

それからボゼたちは広場を後にする。熱気の余韻が残る広場では「赤土をつけてもらった!」と、地元の人や観光客が口々に話している。ボゼがやってくるのは盆行事の最終日と前述したが、居残った悪霊を連れ帰り、追い払ってくれる存在だからだ。赤土も、魔除けの効果があるのだという。
去っていったボゼは、テラ庭ですぐさまメンを脱ぎ、テラの裏に捨てられ、足で踏まれる。これもボゼが持ち帰った悪霊たちがその場に居残ることのないようにするためだ。年に一度、先祖の霊たちとともに賑やかな灯に誘われて島を訪れた悪霊たちを引き連れて帰っていくボゼ。悪魔祓いといえば容赦も慈悲もなげに聞こえるが、孤独な悪霊たちのしんがりを務めるボゼは、島に背を向け悲憫の情を残していく。

その後は庭戻しの盆踊りが奉納され、場所を真っ赤な夕焼けのみえるシバタケに移し、そこでも踊りが奉納される。夕日が水平線へ潜っていくころ、悪石島の長い盆は終わる。


ボゼはどこから来たのか、どのような存在なのか

ボゼは過去には他の島でも現れたというが、今では悪石島のみに現れる来訪神だ。悪石島へは鹿児島港からフェリーで10時間程度かかる。週に2本のみの就航で、その際にそれぞれの島への物資や必需品もともに運ばれる。


「宝島では、ボゼは海からくる死霊のことだというし、小宝島では悪霊だという。ボゼは海の彼方から時を定めて島を訪れる来訪神であり、時が過ぎると再び海の彼方へ去って行くものである。」(p.148)『南九州の民族仮面』で向山勝貞は、ボゼについてこのように書いている。
一方で、村田熙は「盆は精霊=死者の霊が帰ってくるため、集落の人は物忌みをし、毎日のように念仏踊りをして、精霊を慰めようとする。これはいわば死の世界にもひとしい状態とも言える」という。それに対し、下野敏見は盆行事の南島定着が比較的に浅いことや、盆踊り自体が近世盆踊り歌から成ることを考えた場合、もともとヒチゲーに出現したのを盆踊りに起用したのだと考えられると指摘し、祖霊的なものは片鱗も認められないという。(『鹿児島の民俗文化 その秘奥にせまる』)
「ヒチゲー」とは、厳しい物忌みが要求される神々の日だ。口之島や悪石島では「神々が集まり、作物の収穫等、島の一年について協議をする日」だと言われている。向山は、ボゼは本来ヒチゲーの来訪神のひとつであり、盆習俗の伝来に伴って、盆行事の中に採り込まれたのだろうとして、ボゼに祖霊的性格を認めている。
『悪石島民俗誌―村落祭祀の世界観―』で渡山恵子は悪石島のKさん(1931年生まれ)への聞き取りを紹介する。
「赤瀬に集まった七島の親霊は甑島に向かって立つ。口之島のネーシ(内侍)が、七日の夜に線香が上がって出て行くのを見たと言っていた。甑島の海岸に大きな穴があって、七島の親霊はその穴の中に入っていく。穴に入る時はススキが穴の内側になびき、一年後に出て来る時は外になびく。
(Kさんが)甑島出身の息子の嫁に親霊祭りの言い伝えのことを聞いてみたら、瀬々野浦という所に七島の魂がくるという穴があると聞いたことがあるそうだ。」
九州本土の鹿児島の西岸、薩摩川内市と串木野市からフェリーで1時間半ほど揺られた先に甑島は現れる。甑島の西側にまたがるエリアが瀬々野浦集落だ。奇岩が乱立する海が目の前に広がる。この海の中の穴にトカラ列島の祖霊たちは帰ってゆく。
この聞き取りを前にして、ボゼは祖霊的な側面を元来持っていたのではないかという思いが湧いてくる。それとも、もともとヒチゲーに現れ、祖霊とは関係がなかったが、「海の彼方からやって来る」という共通点によっていつしか祖霊的性格が習合されたのかもしれない。盆踊り保存会長の有川和則さんは、ヒチゲーにはボゼは出てこなかった、と言う。物忌みを強いられて村民も静かにしている最中、騒々しい太鼓とともにボゼが出てくるということに疑問を呈していた。
もとはニライカナイも海底の洞窟を指していた。そこには祖霊も異形のものたちも帰っていく。悪石島の祖霊とボゼの一連の物語には、日本古層の香りが漂う。海に囲まれ、その遥か先に他界を仰いだ悪石島だからこそ、ボゼには祖霊が重ねられたのだろう。
ボゼの身体
ボゼは体幹部をビロウ(蒲葵)の葉で覆っている。もとはビロウの葉ではなく、毛の生えたシュロ(棕櫚)の皮を全身にあしらっていたようだ。その姿は人型でありながら、獣を彷彿させる。
ボゼの骨格は島に豊富に自生する竹で編まれたシタミテゴ(竹製の背負い籠)である。大・中・小と3体のボゼには、それぞれハガマボゼ・ヒラボゼ、サガシボゼの呼称がある。「羽釜」と「平」は頭のかたちを指しているようである。サガシボゼは小さいので、逃げ隠れる子どもたちを探して家のなかまで探し回ることができたという。
大きな竹籠を張子にして、サネンバナの筆で赤シュイ(赤土汁)と墨の縦縞の彩色を施す。目が小さく口を大きく開いている。遠くからみるとその口が目のようにもみえ、大きなひとつ目の怪物のようだ。小さな目は、かつては磯アマメ籠の蓋で出来ていた。磯のアマメすなわちフナムシを獲るための籠で、フナムシは釣り餌になる。

そして3体は、タブの木枝でできた「ボゼマラ」を持って子どもや女性を追い回し、赤シュイを塗りつける。ボゼは男根によって盆の生命力を促進する精霊である。

ボゼの変身は、島の祭祀の中心である「テラ」のなかで行われる。「テラ」は「寺」であり、誕生と死にまつわる祭祀の秘密を覆い隠すように、ガジュマルやビロウで覆われ鬱蒼としている。鬱蒼としたテラの中心には光が差し込み、盆踊りの場を祝福する。以前はシバタケの広場でボゼの骨格を組みあげ、変身と彩色をテラで催行していたというが、今ではすべての行程がテラの内でひっそりと行われる。シバタケの広場は、テラの下にある一面の潮見所にあたる。8日間つづく盆踊りの最後は、このシバタケの広場で踊る。祭のあとのシバタケには、踊手たちが手にもっていた笹竹が残される。祖霊は海の向こうの異界からやってきて、海の向こうへと帰ってゆく。

このようなハレの場のすぐ隣に、テラは村落の共同墓地をも孕んでいる。盆踊りによる祖霊供養とボゼの誕生とは、曖昧に区別されながら祭祀空間として一になっているようにみえる。ボゼの誕生が完全にテラの内に取り込まれた現代において、ますます死と誕生は渾然一体となりつつある。

「テラ」で誕生したボゼは一面に赤シュイを塗り、ビロウの葉を纏う。島のことばではビロウを「クバ」「コバ」という。クバは沖縄や奄美でウタキ(御嶽)とよぶ拝所において、常緑の神木として植えられる神聖な植物である。悪石島のいたるところにも墓所があり、ビロウの森のなかにぽっかりとひらけた空間がそれである。御嶽を思わせるその空間には、神木のようにしてビロウが茂る。

ビロウの神秘性を発見したのは、吉野裕子の処女作『扇: 性と古代信仰』である。吉野は、ビロウという生物の全体を、大地という地母神に挿さる男根に見立てる。扇の起源を、ビロウを神木として祀った部族が伝えた祭具に見出そうとした。
南西諸島より北上し、青島神社にも樹齢300年に及ぶビロウの大群落がある。
ビロウはまた、南西諸島の日常的な生活用具でもあった。風通しがよい、撥水性が高い、繊維が強い。籠やうちわ、箒や子どものおもちゃといった日用品となるばかりか、壁や屋根など家屋の建材にも用いられる。その装飾的な葉は、泡盛瓶の運搬のための緩衝材にもなったという。ビロウの笠は、漁民であり農民でもある島の人々が重宝した。
現在のボゼの装いがビロウになったことにもまた、必然性があるのかもしれない。ビロウとボゼと男根、それぞれの記号的関係はあまりにも強く共鳴している。ビロウの森は、その内にある空虚な空間に精霊を現出させる。ボゼは男根の生命力を象徴するビロウの葉を纏いながら、「ボゼマラ」によって赤シュイを塗りつける。

赤/黒の象徴論
ボゼは赤(見た目としては茶色である)と黒の縦縞模様で彩色された大型のメンを被る。黒は墨で塗り、赤い部分は悪石島で採取できる赤シュイと呼ばれる赤土を水で溶いて塗りつける。かつては人血で塗っていたという伝承もある。赤と黒の縦縞模様に関して、有川さんは赤と黒の2色には祓う力があると語る。
佐竹明広は「古代日本語における色名の性格」で、古代日本における本来的な色はアカ、クロ、シロ、アオの4種であることを示した。また、佐竹はこの4色についてはアカ↔︎クロ、シロ↔︎アオが対応するという。古代からアカとクロは対の色として様々な意匠に用いられている。
元宮内庁正倉院事務所で文化財保存修復研究センター長の成瀬正和は装飾古墳の色料についてのレポートで、古墳時代初期以前のことを「赤と黒の時代」とした。

赤と黒の2色は隼人の意匠を彷彿させる。チブサン古墳(熊本県山鹿市)には赤と白と黒の壁画が残され、3世紀末の『魏志倭人伝』においても「朱を以って其の身体に塗る。中国の白粉を塗る如きなり」とある。古墳時代初期までの赤と黒とは当時使用可能だった顔料によって規定された色だったのだろうが、彩色という手段は当時の流行だったのかもしれないし、魔を退けたり、生の力を鼓舞するためのものだったのかもしれない。
八重山のアカマタ・クロマタや、硫黄島のメンドンもまた、赤と黒によって構成されている。ボゼの赤と黒の由来はわからないが、ボゼに赤土をつけられることは魔除けとして現在では考えられている。土地が育んだ赤い顔料を使うことで、大地の力を借り、村民の息災と繁栄を願った意匠は、日本の古代を生きた人たちにも通じるようにも感じられる。
ボゼの造形からみる仮面神比較考
ボゼの容貌はパプアニューギニアを含むメラネシアやポリネシアの仮面神の造形に似ているとも言われる。確かに、彩色や風貌は響き合うものを感じる。一方、大陸側のアジアの風も同時に感じられる。
まずはその素材だ。ボゼメンの材料は島に豊富に自生する竹である。前述のようにシタミテゴ(竹製の背負い籠)を頭から被り、メンの土台とする。中国哲学を研究する池田末利によれば、古代中国で「鬼」という文字は、竹籠を被った人間を表し、かつ、死霊・祖霊を意味するという。向山は池田の主張を引用しながら、南西諸島に分布する仮面の多くが竹籠あるいは竹ヘギを使っているのは、作業の簡略化や素材の不足のためではなく、必然的な要請があったからではないかと語る。実際、硫黄島のメンドンにも竹籠が使用されている。
竹であんだ籠を頂く来訪神をタイで見てきた。仏教の説話が由来となったピーターコン祭りの森の精霊たちだ。


彼らはビロウの茎を仮面としていることに加え、頭には竹の籠を被る仮面神だ。共有点は他にもある。彼らは皆、男性器を模した棒を様々な形に変えてその手に持っている。

男性器に模した棒を手に持つ来訪神として、『稲と鳥と太陽の道』で萩原秀三郎は、ミャオ族のマンガオを紹介する。加えて、マンガオはその棒に泥を塗り、観客たちにつけて回るのだ。ボゼがボゼマラにつけた赤土を観客に擦り付けることと共通する。
泥を観客につける来訪神という点でみれば、宮古島のパーントゥも同じである。マンガオの風貌はどちらかというとパーントゥに近い。
また、マンガオは声を発してはならず、この点もボゼと共通する。



ボゼ来歴考:大陸少数民族とつながる来訪神
想像力をたくましくして考えてみたい。
『八重山・祭りの源流―シチとプール・キツガン』で大城公男は以下のように書く。「考古学や歴史学の研究によると、日本本土の縄文文化が早くから沖縄本島や周辺の島々まで南下し(約6000年前)、続く弥生文化の一部も南漸していたが、それらは先までは届かなかった。沖縄本島と宮古鳥とは300km離れている。その間には、水深約1000mの宮古凹地がある。当時の人々の交通手段では、その海域を越えて南下することは不可能であった。この障害は南から北上する人々にとっても同じで、両地域間で安定的な通交が行われるようになるには12世紀ごろまで待たなければならなかった」。中世に入るまで、八重山諸島と沖縄本島の間の海洋航路には深い溝があったのだ。ボゼの原型が海外からもたらされたものだと仮定したとき、ボゼの来歴がわからない以上、この事実がボゼのルーツをアジアに規定するようなことはないが、少なくとも中世以前にメラネシアやミクロネシアからもたらされるには大陸を経由する必要があるということになる。
ではボゼはどこから来たのか。わたしにはマンガオがそのアーキタイプなのではないかと思えてくる。『稲と鳥と太陽の道』では、日本のコメはミャオ族によってもたらされたという仮説が紹介されている。コメとともに運ばれた精神文化のひとつとして、年はじめに草で身を包んで出現する来訪神を挙げる。
暦法発達以前の農耕民は生産歴をとるのが普通であり、古代の年はじめとは収穫祭の時期にあたり、祖霊来訪の節目でもあった。そして大抵は強い物忌を強いる。このことは、向山が指摘したように、ヒチゲーが一年の節日であったこと、強い物忌を要請したこと、ボゼに祖霊神的性格をみたことにも通じる。
来訪神がその身を草で包むことについて、『宮古旧記』(年)には「男神は紅葉を以て身を荘厳す。故に木荘神と云う。女神は青草を以て身を荘厳す。故に草荘神と曰ふ」とある。萩原は草木の霊力を認めている証であるとした。青草をまとう来訪神の原型を、チガヤの霊力を借りた来訪神に見た。谷川健一はそのことを「草荘神の古型」で「草や木の葉を身につけるのは人間と分け隔つ神の印である」と言う。わたしはこれに加えて、その土地に固有の植生をまとうことで、土地の力を取り込もうとしたのではないかと思う。チガヤ、ワラ、シュロ、ビロウ、ドロノキ。土地の植物をまとうことで、神と人の分水嶺をつくり、土地の力を借りて祖霊や神なる世界とつながろうとしたのではないか。
マンガオを仮面来訪神アーキタイプと考えてみると、タイ北部で仏教と混ざり独自に発展し、海を渡って分岐したものは、日本やメラネシアを含むオセアニアにそれぞれやってきて独自の進化を遂げたと考えられるのではないだろうか。マンガオの形質は、パーントゥやアカマタ・クロマタ、ボゼやメンドンにそれぞれ受け継がれているように思う。
豊かで豊穣な土地に現れる来訪神。彼らの造形には、土地に根差した固有の世界が埋め込まれている。ボードレールは人間としてのミクロコスモスと世界としてのマクロコスモスが互いに相似関係にあり、響き合っていることを指して「コレスポンダンス」(万物照応)と呼んだ。杉浦康平は、自然の生命力を映し取ったアジアの形に着目し、「万物照応劇場」のシリーズ名のもとに著作を書いている。そのうちの一冊、『日本のかたち・アジアのカタチ: 万物照応劇場』でこんなことを言っている。
「図像の一つ一つは、多彩な世界を包含している。それをなにかに例えるなら、小さな鏡をモザイクのように寄せ集めたもの。一つの図像に含まれた小さな鏡が、他の図像の別の細部を明晰に映してとりこんでいる。いくつものイメージの断片が小さな鏡の反射によって重層し、全体を形成する。つまり一つの図像、一つのカタチのなかに、あたかもマンダラをみるような、アジア的コスモスが、姿を表しているのである」。
来訪神たちは、自然をその身に映し取りながら、人々の豊穣と繁栄への祈りをも携えている。そうしたアジア的コスモスを孕んだ神様が、それぞれの土地にいて、毎年住人のもとにやってきては、蜃気楼のように去っていく。
Postscript
今回は来訪神ボゼの造形を探り、アジアの仮面神の比較を通じて、日本の仮面神が継承するアジア・オセアニア的DNAについて考える試みをした。ガラパゴス化する島国日本において、信仰の古型を思わせる来訪神がアジアの形質を残していると知ることは、まばゆい希望のように思う。国家や民族間の分断を助長する言説がネットを覆う現代において、世界が根っこの部分でつながっているのだと思わせてくれるからだ。土地の力を取り込み異化されながらも、太平洋南西からの風を運ぶボゼがこれからも悪石島を生きる人々の努力をもって、島に降り立ち続けてくれることを願っている。

